社会人になって昭和64年3月、北鎌倉学園女子高校を卒業した4月、野村證券に入社、平塚支店に勤務することになりました。 同期は神奈川県立平塚江南高校卒業の女子のお二人でした。 穏やかな支店長に総務課長、ゲキを飛ばす営業部長のもと、セールスマン 事務職、外交のご婦人社員さん達、総勢50人程で株式から投資信託、国 債など.多数の売買商品があり、営業職にその日その月の各種のノルマが課 され、キャンペーンの時期には私達も動員されました。当時の平塚支店は 全国三位の実績があり、ヘトヘトマークの社章をみると懐かしく、今でも 思わず声を掛けたくなります。 まだソロバンが当たり前で、野村證券が初めて大型コンピューターを導入、 四日目取引となり、まだ証券を数える時代でしたが今やオンライン・男女 平等・同一賃金、私たちの時代とは大違いです。 初めて口紅をつけ会社に行ったのは、3人で示し合わせた半年後でした。 午後七時が家の門限、父が言うには「残業するのはできない人」。要領の いい人は毎日ノルマの宛名書きは、夜食を食べてからやる。私は必死にや りました。 残業しない子は良い子じゃない評価、今思えば要領が悪かったですね。 寿退社が当時の風潮「お局さんにはなりたくないね」と言いあったのに. ボーナスの高額に定年まで勤め上げた人、私は4年に満たない退社でした。 理由は茅ヶ崎で初めての薄皮ピザのお店をオープンするために! 1969年にピザ・.ナポリタンのお店「ドンガバチョ」がオープン! 私は結婚でやめましたが、妹の手伝いやアルバイトの女子大生に支えられ 賑やかでした。現在も弟が営業し、今年で52年目を迎えました。 |